マイナンバーはいらない

post by nishimura at 2018.3.20 #214
戸籍 マイナンバー 連携 個人単位の国民管理 家単位の国民管理

学習会「戸籍へのマイナンバー導入は何をもたらすか」記録
その2 講演 : 遠藤正敬さん
「家単位」の国民管理 vs 「個人単位」の国民管理

 問題だらけの「戸籍」制度と問題だらけの「マイナンバー」。この2つを連携したとき、いったい何が起きるのでしょうか? 戸籍を専門とする政治学研究者遠藤正敬さんは、この連携を「日本人が初めて経験する『個人単位の国民管理』」だと指摘しています。2017年10月26日の学習会の全記録から、遠藤さんの講演を収録。

II 戸籍形成の歴史――家・戸籍・国体

近代以前の戸籍の変遷

 近代以前の戸籍の変遷ということで、ざっと振り返ります。古代の戸籍というのは今よりもだいぶ使い道が限定されていて、国家が徴兵・徴税のために人民を資源として把握する目的で作られました。
 中国で発祥して日本にも伝播したということですが、古事記とか日本書紀には3世紀、4世紀ぐらいに戸籍があったという記述があるのだそうです。 おそらく最初に全国統一の戸籍が編製されたのは、律令国家の成立した7世紀――670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)、690年の庚寅年籍(こういんねんじゃく)です。ご存知のように当時、班田収授法といって、戸籍に登録されたものに国から田んぼや畑が与えられ、それに基づいて徴税を行うという形でしたので、戸籍に登録されることで良民や賤民の区別が行われた。

天皇と臣民の絶対的な上下関係を体現した戸籍

 そして忘れてはいけないのは、この時代から戸籍というのは、天皇から授与された氏や姓を記録するものでもありました。つまり天皇から良民として承認された者が、臣民として戸籍に載る。天皇は戸籍に載らない。つまり臣民簿という性格がこのときから確立していたということです。戸籍というものは、天皇とわれわれ臣民の絶対的な上下関係を体現するものであった。

近世封建社会における固定された身分の登録 ――人別帳

 近世封建社会の戸籍になりますと、資料では「定住社会の理想」と書きましたが、封建社会というのは人々が定住して、その上で職業の選択がないのですね。だから身分の移動がない。そういうときに戸籍というのは、徳川幕府が公認した身分を登録する。厳密にいうと人別帳ですね。
 これが今の戸籍とちがうのは、居住地、つまり家屋ごとに居住者の名前や性別、年齢、出生地、身分関係――女房であるとか下女であるとか、あと職業などを記録した人口台帳であったということですね。
 ただ、身分の違いによって、武士や公家、僧侶とかは除外されたので、人口登録としては不完全なところがありました。それから行商人とか芸能民、宗教者とか、定住しない生活を選ぶ人は人別帳に載りにくい。無宿とか無宿者とかいわれたのは、人別帳から外れた者です。

近代日本の戸籍 ――「家の思想」と結びつく

 近代戸籍になりますと「家の思想」と結びつくことになります。

復古としての明治維新 ―― 壬申戸籍による臣民簿の統一

 まず壬申戸籍(じんしんこせき)の誕生ですが、ここで戸籍は「臣民簿」としての統一がなされます。明治維新というのは「新しきをつなぐ」と書きますが、実際は王政復古でした。「復古」つまり、近代国家の始まりは、古事記や日本書紀などの建国神話にさかのぼって、そこから天皇が神格化されて、その正統性でもって国を創っていこうという、非常に逆説的な近代化の始まりなんですね。
 その中で、1871年、明治4年に富国強兵という、国を豊かにして軍隊を強くしようというスローガンのもとに、戸籍も必要ということになりました。太政官布告第170号というものが出まして、これが「全国総体ノ戸籍法」とされました。それまでは藩ごとにばらばらに人別帳を実施し、統一された規定がなかったのが、ここにきてようやく国家の制定した規定によって戸籍が作られます。それが壬申戸籍です。

華族・士族・僧侶・平民という身分秩序に再編成された「元祖日本人」

 その太政官布告の第1則は、「臣民一般」――これは「士農工商」の身分が解体され、華族・士族・僧侶・平民という身分秩序の再編成がされました。それらを全部「其住居ノ地ニ就(つい)テ之ヲ収メ専ラ漏(もら)スナキヲ旨トス」、そういう文言になっています。日本に住む者を天皇の臣民として登録する。これが、法的な意味での「元祖日本人」であろうと思います。言い換えると、戸籍に載った者が日本人になるという規定が下されるわけです。

戸籍の上に立つ天皇、皇族

 ここでも戸籍の上に立つのは天皇、皇族であり、説明するまでもなく臣民とは「天皇の臣民」です。
 女性が婚姻のため皇族を離脱すると臣民の戸籍に入ります。「臣籍降下」ですね。最近マスメディアはこの言葉を使わないようにしていますが、「臣に下る」ということで「戸籍」が今でも臣民簿であることを示しています。われわれはまだ臣民だということですね。

「本籍」と無戸籍者(まつろわぬ者)

 この壬申戸籍のときに、「居住地」を「本籍」とするという形になりました。なので、このときは住んでいる場所と「本籍」が一致していたのですが、だんだん社会の近代化で人々が移住する生活が多くなると、当然、本籍から離れて遠いところで生活する人が増えてくるわけです。
 この時代の無戸籍者というのは、最初に壬申戸籍を編製したときに載らなかった者、いいかえれば定住しない者であったりしたわけです。「まつろわぬ者」――つまり、戸籍に載らない者は定住しない者であり、そうすると治安的にもよろしくない。そして、天皇の臣民として帰服しない者である――そういう図式になる。
 ただ現実的に、江戸時代の人別帳と同じで、日雇い労働者、行商人、水上生活者、遊芸民、山伏、サンカ……こうした定住を嫌うといいますか、移動を常とする人々は戸籍の谷間を生きることになります。

「日本人」の包摂と内部における差別

 「日本人」というカテゴリーを法的に決めたとはいうものの、その内側にさまざま境界線が引かれるわけで、つまり戸籍による差別の再生産ということです。戸籍の持つ両義性がそこにありまして、「日本人」として包摂するという建前と、「日本人」内部で差別する、それが本音でしょう。

アイヌ

 例えば、北海道では1871年に壬申戸籍が施行されるのですが、異民族であるアイヌも日本人に編入されます。しかし、戸籍上に「旧土人」と表記されることもありましたし、「北海道旧土人保護法」なんていう法律が平成時代まで残っていたりして、ほぼ公称として「旧土人」が用いられていたわけです。

被差別部落

 それから、被差別部落の出身者は、先ほど言いました士農工商という身分が廃止されて、平民という身分に位置づけられたものの、「元穢多」とか「新平民」と記載された例がありました。

婚外子と棄児

 それから婚外子については、「私生児」「庶子」という呼称が公的な用語として使われていた。
 そのほか「棄児」は今でも法律用語になっていますが、「捨て子」ですね――その「棄児」として生まれたことが戸籍に載っていたりする。ほかにも「前科」が戸籍に載っていたり5、特定の療養所や刑務所で生まれた……そういったことも記載されておりました。

人権意識の芽生え(行政の現場における不徹底)

 これらについていつごろ戸籍に記載しないようになったのかということは、表1「戸籍謄抄本の記載が廃止された主なプライバシー事項」に掲げておきます6
表1 戸籍謄抄本の記載が廃止された主なプライバシー事項
事項廃止の根拠
族称 平民 1938年6月29日民事甲第764 号司法省民事局長回答
華族・士族 1947年4月16日民事甲第317 号司法省民事局長通達
「私生子」「庶子」の文字 1942年2月18日民事甲第90 号司法省民事局長通牒
「棄児」の文字 1928年9月22日民事第10395 号司法省民事局長回答
公設または私設の療養所または病院において出生または死亡した場合の病院等の名称 1941年6月5日民事甲第547 号司法省民事局長通牒
同年7 月22 日民事甲第708 号司法省民事局長回答
刑務所において出生または死亡した場合の刑務所の名称、届出人または報告者の官職名 1926年11月26日民事第8120 号司法省民事局長通牒
犯罪に関する事項 1963年8月8・9日岐阜県連合会戸籍事務戸籍協議会決議
 例えば「平民」という族称は、1938年の司法省民事局長の回答で、戸籍謄抄本には載せないようにとされましたが、通達とかは全国津々浦々に浸透するわけではないので、この民事局長回答が出た後もしばらくは、部落出身がわかるような族称を書いてしまって交付される事件も見られたようですね。
 表にはあるように、「私生児・庶子」とかの記載についても、戦前にそういう措置が取られています。戦前も、少しは人権意識が芽生えていたとは思うのですね。でもそれが行政の現場ではあまり徹底していなかったことは確かです。

1976年まで戸籍は「公開」されていた

 さらにはこういう差別的な記載を持ちながら、戸籍というのは1976年まで誰でも閲覧可能でした。そのため、よく身元調査のために興信所などから利用されることがあった。
 特に壬申戸籍は、部落差別に関する記述を利用しての身元調査に使われることがあったので、1968年に法務省より閲覧禁止、廃棄可能という通達が出て、封印されております。

「家」と戸籍、「国体」の観念 ―― 明治31年式戸籍

 戸籍というものは思想的に考えるとどういうものだろう? それは「国体」の観念を支えるものであったということですね。
 明治政府が制度として創設した「家」、いわゆる家制度というものですが、1898年7月、それを定めた明治民法の施行と同じ日に戸籍法、別名「明治31年式戸籍」が施行されます。

紙の上の「家」―― 戸主の支配下にある親族集団

 ここで「家」というものは、戸主の支配下にある親族集団として位置づけられまして、同居は関係がない。戸籍上の家族、紙の上の家族ということです。
 明治民法の第732条に、これぞ「家」という規定がありまして、「戸主ノ親族ニシテ其家ニ在ル者及ヒ其配偶者ハ之ヲ家族トス」。つまり、民法上に現れるこの「家」という文言は「戸籍」と同義でありまして、「家」を全部「戸籍」と読み替えるとすんなりいくわけです。

「一家一氏」と家族国家思想

 つまり、戸籍というのは観念的な家の登録に生まれ変わる。「一家一氏」つまり、人は必ずひとつの「家」に属してひとつの「氏(うじ)」を持つということが、日本人の「本分」とされます。
 これと結びついた思想として、「家族国家思想」というものがありました。
 東京帝国大学の教授だった穂積八束(ほづみ やつか)――フランス式の旧民法人事編が明治政府で作られたときに彼が猛反対して「民法出でて忠孝滅ぶ」という有名なことばを残した人ですが、彼が「家族国家」のイデオローグでした。
 彼は、「国は家の延長である、家は国の縮図である」という、非常に明快な考えでした。国の家長である天皇に対して、臣民は赤子である――そういう皇室と臣民の関係ですね。皇室が下々の家を束ねる本家であって、臣民たちは分家である――そういうアナロジーによって家の思想と天皇崇拝が接合される。

祖霊崇拝と戸籍の美化

 そして祖霊崇拝の道徳化が行われる。天皇の正統性は建国神話にもとづく「万世一系」の、つまり天照大神から連綿と続く神々との連続性にある。その天皇・皇室が日本の家長であり、われわれは臣民、赤子として家を守ることが国の安泰につながるという、まさに教育勅語に示された精神ですね。
 そういう考えが、政府から、上から教育されていくわけですから、当然、個々の家の中でも先祖との連続性、「祖孫一体」が守るべき家の価値となる。
 つまり「家」というのは長く続けば続くほど価値が高まる。家の由緒というのはそういうところですね。その「家の系譜」が戸籍であるから、当然、戸籍が美化されることになります。

「戸籍がなくなると困る」という人々

 戸籍がなくなると困るという人は今でも多いかもしれませんが、そういう人は現実的に何か困るというよりは、家の価値、家の系譜としての価値というところで、戸籍に非常に魅かれているのではないかという気がするのですね。
 そして、「血統」というフィクションからなる、「日本人の証明としての戸籍」という考えです。
Note

*5 「前科」(犯歴情報)の戸籍への記載については、» 注13 を参照。

*6 遠藤『戸籍と国籍の近現代史』(2013.9、明石書房)p.44

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